全盛期の西夏
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建国初期から全盛期
西夏は建国後、遼と同盟し宋に対抗する政策を採用し、しばしば宋内に兵を進めている。この軍事対立は1044年の和議成立まで続いた。宋との和議では宋が西夏の地位を承認すると共に、西夏が宋に臣従する代償として莫大な歳幣を獲得した。しかし同年に西夏と遼の間で武力衝突が発生すると、西夏は宋、遼と対等な地位を獲得するに至った。
李元昊の死後、2歳にも満たない息子の李諒祚が即位し、その母である沒蔵氏による摂政が行われた。この時期遼による西夏攻撃が行われ、西夏は敗北、遼に臣従する立場となった。
1063年、吐蕃の禹蔵花麻が西夏に帰属した。皇帝である李秉常の母である梁氏はこの時期宋に対する軍事行動に出るが失敗、国政は李秉常の元に帰属するようになった。しかし李秉常の死後に3歳の息子である李乾順が即位すると、梁氏は再び摂政を開始、宋や遼に対する軍事行動を起こしている。李乾順の親政が開始された後は遼や宋との和平政策へ転換し、軍事行動は年々減少、西夏の社会経済が発展していくこととなった。
1115年、金が成立すると遼に対し侵攻を開始した。1123年、遼天祚帝は敗戦により西夏に亡命、同時に金の使者も来朝し李乾順に対し遼帝の引渡しを求めた。李乾順は遼の復興は困難と判断し金の要求を受諾、これにより西夏は金に服属することとなった。そして金により北宋が滅亡されると、西夏は機会に乗じ広大な領土を獲得することとなった。
李乾順の死後は息子の李仁孝が即位した。この時期西夏国内では地震と深刻な飢饉が発生し民心が乱れ、各地で農民蜂起が発生した。これに対し李仁孝は国内に各種改革を行い、社会経済の発展と、社会の安定に努めた。
国力衰退
李仁孝の死後は息子の李純祐が即位したが、この時期になると政治腐敗が進み、国勢は凋落の一途を辿っていた。その状況下の1206年、親族の李安全が帝位を簒奪し李純祐を殺害、それまで金に依存した外交政策を見直し、当時強大な勢力を誇ったモンゴル族に依存する政策を採用した。李安全は金に対し十余年に及ぶ軍事行動を発動した。この軍事行動は金のみならず西夏の国力を疲弊させるものであり、また飢饉などで貧困が続いていた民衆の離反を招き、また政治腐敗のみならず、皇帝自らが酒色に溺れ朝政を省みない状況で国内は一層不安定なものとなっていた。またモンゴルに依拠した外交政策も、西夏の安全を保障するものでなく、1205年にはモンゴルは西夏侵攻を開始、1209年までに3次に亘る西夏出兵ですでに国力は限界に達した。1211年、西夏で宮廷クーデターが発生、李遵頊が帝位を簒奪したが、中興に影響を与えるものでなく、西夏の凋落は下降線の一途を辿った。1216年、西夏はチンギス・ハーンの出兵要請を拒否する。その行為はモンゴル側の怒りを招き、1217年に第4次西夏遠征が行われるに至った。1223年、李遵頊は自らが亡国の君主になることを避けるため、太子の李徳旺に譲位した
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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